氷の国へ
南東アラスカの内海に、景観がきわめて美しいグレイシャーベイ国立公園がある。
崩落する氷河の圧倒的なシーンを間近で撮りたくて、カヤックで入ってゆく。

Johns Hopkins氷河
氷河によって削られた大地に、海水が上昇して形作られたのが、フィヨルド地形という。
険しい山岳地帯にまで海が上昇してきたかのようなこの特殊な地形は、多くの入江をつくり、まるで湖を航行するかのような滑らかなパドリングでカヤックを楽しむことができる。
世界遺産にも登録されたグレイシャーベイ国立公園の、そのなかでもとりわけ美しく活動の激しい氷河で知られる、ジョンズ・ホプキンス氷河がある。
ここにアクセスするためには、観光船で遠くから眺めるか、カヤックでその氷河の末端まで入ってゆくか、どちらかの方法しかない。そして、僕は、夏の中でもいちばん晴天率の高い7月初旬に、計画を立て、入ってゆく。
「私は何千もの氷河と無数の氷の形を見てきたが、これらの高貴な山々のものほど輝かしく、神聖な夜明けの光を放つものはなかった。」
― ジョン・ミュアー 『Travels in Alaska』
旅の目的
アラスカを一言でどんな場所かと問われれば、最有力候補にあがるのが、「青く鋭い氷河の世界」だろう。その氷河の世界に上空からも海からも、歩いてさえ、好きなだけ入って行けるのが、グレイシャーベイ国立公園だ。
氷河の崩落は、実際そこに居合わせることさえできれば、日に何度も繰り返すため、いくらでも見ることができる。しかし、近距離では危険なため、船で入ってゆくことができない。カヤックであれば、近くの岸に上陸して、その岸を辿って崩落する氷河の末端の至近距離にまで到達できる。
地図を慎重にしらべ、国立公園のレンジャーとも相談しながら、キャンプできる岬を選ぶ。
旅の目的はその氷河の崩落をできるだけ近くで撮影する、ということと、もう一つは、そこに生きるアザラシを撮影することだった。ジョンズ・ホプキンス入江は、6月にアザラシが仔を産み育てる場所としても有名な場所で、6月は研究者以外この入江へのアクセスは制限されている。それが解禁になる直後に僕は撮影計画を立て、入ってゆく。
海水温が氷点下回る海で、仔を産み育てるアザラシとは、いったいどんな動物なのか。遠くからは何度も見たことがあったけれど、かれらの生活史を知らない。警戒心が強く、船が近づけばすぐに氷上から海へ潜り込んでしまう。

氷上のアザラシ
別の日にはアザラシを観察した。
すでにこの地のアザラシたちは、僕が行ったり来たりしていることを目撃していて、何度も通過しても、アザラシに目を向けない、気にしないことから、だいぶ近くに出てくるようになった。氷河の撮影を先回しにしていたのは、僕の魂胆である。予想通り、カヤックの近くに出てきてくれるようになる。それでも警戒心の強いアザラシは、氷塊から降りて潜り、僕のカヤックの四方八方から、ぬっと顔を出しては、僕の次のパドルで頭を引っ込める。
あかちゃんを連れ添っているようなアザラシを見かけなかったけれど、後で調べてみると、アザラシの赤ちゃんは、親から毎日ミルクを得て、130cmにも成長するようで、写真には写っていた。
ジョンズホプキンス氷河は、氷河の活動が活発で、しかも前進している数少ない氷河であるため、海に浮かぶ氷もそれだけ多い。そのことが、彼らの天敵となるシャチを寄せ付けず、仔を安全に出産できることから、アザラシの繁殖地と子育ての場所になっている。
アザラシは、どれだけの熱を発すれば、氷点下の海にずっと入ったままで生きて行けるのだろうか。それだけ熱を発するということは、それだけの食べ物をとって食べているはずで…。おそらく僕ら人間の代謝とはまったく比べられないほどに、アザラシたちはあの浮袋のように丸っこい体のなかで何か特殊な機構をめぐらしているのだろう。
観察していてアザラシが寒そうだとか、苦しそうだとか、そういった様子は一切ない。むしろ、煌めく陽光を浴びて、気持ちがよさそうなのだ。
ゼニガタアザラシの特徴
鼻を閉じて眠る
長くても十数分だが水中でも眠ることがあり、鼻孔を筋肉でしっかり閉じることができる。この能力により、水面に浮かびながら休むことも知られている。
生まれた直後から泳げる
ゼニガタアザラシの赤ちゃんは、生まれてすぐに泳げる。これは他のアザラシ(例:ワモンアザラシなど)と比較しても進化的に驚異。
乳離れが早い(3〜6週間)
授乳期間は非常に短く、母親は短期間で脂肪分の多いミルク(脂肪分最大50%以上)を与え、急速に子の成長を促す。
海に落ちるなよ
旅の行動計画は、何かがあった時にレンジャーが探しに出るため、提出してから入ってゆくのが国立公園のルールになっている。この地で経験豊富なレンジャーから貴重な情報をあつめ、十分に余裕のある行動計画を立てる。しかし、
「絶対に海に落ちるなよ、15分ともたないから」
この言葉を聞いて、とにかく、海に落ちないことだけを考えた計画であれば十分だと思ったほどだった。
夏は比較的気温が暖かく、摂氏20度にまで上がることもある。しかし、海水は、常に溶け出した氷河の融解水が流れ込み、マイナス3度くらい。天気の良い心地よい昼下がりの凪いだ海でも、水面下は人間を一時間もたたないうちに死へと導く世界が広がっている。その境界線を、カヤックで渡ってゆく、ということ。
とにかく、岸から離れすぎないこと。そしてフィヨルド地形で上陸できない岸壁の横を走航するときは、十分に状況を見極め、休息を取った後に通過すること。入江の対岸に渡る時は、浮かぶ氷塊には絶対に近づかないこと。この氷塊が、溶けてゆく中でバランスをかえ、転覆するときに近くにいれば、その波にカヤックごと呑み込まれるからだ。
つねにアラスカは、生と死の境のようなところに「美」がある。アザラシはその境界線で生きてゆく体を獲得して、天敵が近づくことができない氷塊が浮かぶ海峡を自分たちの住処としている。アザラシにどれだけ迫れるかわからないけれど、その生きる姿を見たい。
氷河崩落のダイナミズム
船で降ろしてもらってからひたすら、ほぼ休みなく六時間漕ぎ続けた。休みなく、というよりは、上陸できる岸が思っていたほどなく、転覆したらまず助からないような、泳いでも上がれない岸のそばを通過していた。ただ、この7月の短いアラスカの夏の陽気が暖かく、海は微風に凪いでいて、いま自分がどれだけ危険な場所にいるのかすら忘れさせるほどの、平かな海だった。
目的のキャンプ地は、想像以上に広く、僕はこの基地を独り占めにした。
疲れ切ったまま食事を終え、全て片付いて、小高いテントの位置から1キロ先の氷河をゆっくり眺めた。明日、できるだけ早い時間であの、ジョンズホプキンス氷河に近づく。22時の長い1日が暮れかかっていた。
氷河の崩落は凄まじかった。巨大な氷塊が水面を叩きつけ、怒号を鳴らして怯ませる。そのあとには浮かぶ氷塊を転覆させながら、大波が低周波動となって僕のカヤックを揺らす。振り返ってアザラシを見ると、氷の上で心地良さそうに揺られている。
氷河が氷の川として流れていることは、氷河の上から見ていても感じることはできないが、いま僕のいる氷河の末端にいれば、次々に押し出されていることが実感できる。
近づける限界は、800メートルくらいだろうか。流氷も多く、カヤックにぶつかってダメージを与え続けている。
上陸できるぎりぎりの岸を見つけて五時間、じっとそこで氷河の様子を見ていた。
